飛び出した大阪の街〜楢原知枝(PC03-06)

2003年夏、私は期待に満ちて関西国際空港を飛び立った。待望のUWC留学、長年の夢が現実になろうとしていた。中学生のはじめか小学生の終わり頃から、留学したいと思っていた私は、インターネットHPからUWCのことを知った。「平和構築」という大きな目標のもと、多種多様な民族の生徒が集まる、しかも奨学金をもらっての二年間の派遣・・こんな美味い話があるのかと疑ってしまうほどだった。UWC受験を目標にしてから、英語の学習にさらに励み、新聞や様々な書籍に目を通すようになった。UWCとの出会いは、受験期からすでに、視野を広げ、自分を成長させる機会を与えてくれていた。

そして、たどり着いたのはカナダ、ブリティッシュ・コロンビア州、延々と続く山々、森林の中に佇む街を飛行機から見下ろし、「地球にはこんなに自然が残っていたんだ!」と、専ら都市で育った私は、その壮大なカナダの自然に胸を震わせた。

ビクトリア空港から1時間ほど小型バスに揺られ着いたのは、夢に見た「ピアソン・カレッジ」、森林と湾の間に建てられた、まるでキャンプ場のような学校だった。しかし、迎えてくれたピアソンの在校生、新入生を前に、私が向き合わざるを得なかったのは、「英語がわからない!」という現実だった。そんなパニックの中、私のUWC生活が幕を開けた。

プライドを捨て、一歩一歩進んでいくこと

UWC一年目は、とにかく苦労した。それまで、日本では努力なくしてもそれなりの成績を修めれた私にとって、授業の内容がわからない、テストで何を聞かれているかわからない、しまいにはどこが宿題なのかさえ聞き取れない・・当初の3ヶ月ほどのそんな状態は自信の喪失でしかなかった。また、私は助けを求めるのがあまり上手でなかったので、授業でもピアソン生活全般でもどんどん取り残されていくような気がした。しかし、少しずつ英語力もつき、自分の置かれた状況を客観的に見れるようになってからは、プライドを捨て、自分なりのスピードで成長していこうと思えるようになった。    ピアソンは卓越した才能を持った生徒たちで溢れていたが、そんな彼らと自分を比べ塞ぎこむより、自分の最大限の努力を積み重ね、彼らから良い意味で刺激されることが大切だった。そうして、私は自分なりにイニシアティブをとってピアソンでの様々なイベントに参加するようになり、テストの成績も悪い点に悪い点を重ねながらも少しずつ右上がりになった。友人関係においても、たくさんの友人を無理に作ろうとするより、一人一人との仲を深めるようになった。特に、となりのベッドで寝ていたグリーンランド人のルームメイトとは、お互いに泣いている時も嬉しい時も全部承知だったので、生涯に残るだろう友人関係を築くことができた。

カナダの大自然−特別なホワイト・クリスマス

ピアソン一年目の冬休みを、私はなんと水道も電気もない山小屋に住む4人の一家と、10数匹の犬たちと過ごす事になった。カナダ・ユーコン州の小さな村で過ごしたそのクリスマス、零下20度、30度の中、犬ぞりを体験させてもらったりもした。小さなキャビンの中では、四六時中家族が顔をあわせていたが窮屈なことは無く、とても温かだった。何もない生活が、こんなに充実したものだと学んだとき、私はかねて疑問に感じていた日本の大量消費生活について、改めて考えなくてはいけなかった。今振り返ればこのような大自然でのシンプルな生活を体験する機会など二度と無いかもしれない。そう思うと、UWCがいかに様々なアドヴェンチャーへの扉を開いてくれたのかと痛感する。

YearOption−カナダ北極圏、住民400人の村で10ヶ月間の社会奉仕活動

UWC一年目で計り知れない学習、そして成長をし、さらに冒険的になった私が選んだのは、ピアソンの一年目と二年目の間の10ヶ月間を極地での社会奉仕活動に費やす、という決断だった。これは、ピアソンがイニシアティブを取って進めていたプロジェクトによるもので、その内容は、UWCカナダ校(ピアソン)、イタリア校、アメリカ校の3校の中から有志の生徒を選考し、中南米やアフリカ、カナダ北部などでの10ヶ月間の社会奉仕活動に派遣する、というものだ。私は、同じくカナダ校出身のウェールズ人、イタリア校出身のポーランド人、アメリカ校出身のアラスカ人という4人のチームのメンバーとして、カナダ北極圏、ノースウェスト準州、先住民400人の住むアクラヴィック村の学校で先生のアシスタントとしてボランティアをすることとなった。

荘厳な自然の美と脅威、先住民の辿ってきた歴史、彼らのおかれている現状、ボランティアの意義、仲間との結束・・それらを体感した10ヶ月間は私の人格や将来目標を形成する上で、おそらく一番大きなインパクトを持っているだろう。

零下40度は当たり前で日照時間わずか3時間を満たなくなる長い冬を越すと、白夜の続く夏が来て人々は窓に立て板を張って眠り、植物は昼夜問わず成長し、同時に恐ろしいほどの蚊の大群が発生する。そんな苛酷な自然環境に人々は住んでた。しかし、同時にそれは様々な色彩に溢れる豊かな場所でもあり、満天の星空や空を踊るオーロラ、地平線を染める朝焼けや夕焼けの濃い赤、凍った川の氷の青、様々な動物の毛皮で作った色とりどりの民族衣装などが思い浮かばれる。

私の主な仕事は幼稚園児の世話と、各学年で美術の授業を教えることだった。子どもたちの多くは、FASという妊娠時の飲酒による脳障害などを軽度、または重度に持っていた。親世代である先住民たちは、近代化による伝統生活の変化に伴い生じたアイデンティティーの崩壊などの中、アルコールやドラッグ中毒のものも多かった。先住民の教育水準は他のカナダ人に比べて一般的に低く、教育現場は先生不足など困難な状況にあった。私は、そんな状況を見ながら、問題は親子間での伝統的な教えの継承の欠如にあると感じ、「親から子への教育を強めてほしい」というメッセージをこめて壁画を自主制作した。また、それとは別に「先住民の伝統文化や先住民としてのアイデンティティーに誇りを持とう」といった内容の壁画制作の補助もした。美術が得意だった私が、ボランティアとて「何かできること」と思って作り上げたものだった。しかし、日々の子どもたちとの触れ合いや、村民とのおしゃべりの中、やっと彼らのことを理解し、自分の役割をなんとなく理解し始めたのは帰る直前頃だった。本当にこの村民たちに貢献したいと思えば、10ヶ月間でなく、それはライフワークになるのだと、感じざる終えなかった。今の私は、環境問題に取り組む職業に着きたいと思っている。それは、この村で見たような美しい自然と、自然の恩恵を受け営まれてきた地球上様々な、豊かな伝統文化を守りたいという熱意に基づくものだと思う。

UWCでの最後の一年−120%充実させる!

このような10ヶ月間を経て、私は再びピアソンに3rd Yearとして帰りついた。一年目の英語がわからず臆病に振舞っていた私とは違い、目の前にある数々のチャンスを貪欲に生かそうとするアクティブな私がいた。10ヶ月間、生徒ではなく先生を経験した私は、授業を始め生徒として与えられうる機会の豊かさをとてもありがたく感じた。北カナダで得たインスピレーションを活かし美術製作に没頭し、ピアソン伝統のウクライナダンスにも参加、カヤックにも挑戦した。ナショナル・デイやワン・ワールドというパフォーマンスの催しの際には、同期の日本人たちと一緒にソーラン節を踊ったりもした。また、「今できることを今しよう」という信念のもと、私はアジア各地出身の友達との話し合いの上、アジアにおける第二次世界大戦についてのグループ・スピーチを企画し、何千という観客の前で発表する機会をいただいた。私たちはそのスピーチを「平和への一歩」と称した。スピーチの練習中、アジア各地の生徒たちの口から直接に、日本が何をしたのかについて教えられた。初めて知った歴史的事実も多く、私は恥ずかしい限りだった。UWCという保護された環境にいたからこそ実現できたスピーチだったが、複雑困難な現代社会においてそういう理想を語れるUWCという場はとても重要だと思う。UWCは私に、積極、かつ前向きに「できる!」と信じて行動していくこと、また、人との協力がいかに大きな可能性を生むのかを教えてくれた。

そして卒業・・帰ってきた日本

卒業した夏、私のルームメイトだったグリーンランド人の友人が日本を訪れた。彼女は今でも姉妹のような存在だ。国も民族も違うのに、人間として本当に理解しあえる、そんな友人を作ったら、やっぱり地球を身近に感じるものだ。どんな世界のニュースも他人事でなくなる。すぐにその周辺国出身の友人の顔が思い浮かばれ、無関心ではいられなくなる。これは、どのUWC生にとっても同じことだろう。UWCは私に自分が地球に属しているという認識を与えた。また、自分が日本人である、ということもよく教えてくれた。「国際人になりたいならまず日本人になりなさい」と最近、大学の講演で言われたが、それを今、実感している。日本という先進国に生まれついた私の責任や役割を、これからもっと模索したい。

このような私のUWC留学だったが、それを実現できたのは、国内外のスポンサー様方を始め、ピアソンの先生や友人たち、北カナダの村民や自分の家族からの支援があってのことだった。UWCを通して出会った人々全てへの感謝の気持ちは、生涯、私が前向きに人生を歩んでいく原動力でありつづけるだろう。

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ピアソンカレッジ(2003-2006)

在籍中(2004年8月〜)10ヶ月間、カナダ北部先住民村でボランティア活動に従事。2006年に卒業。

2007年現在 一橋大学法学部在籍