ガンジス河〜三好(野中)あさぎ(MC01−03)

「インドに行って、何が一番印象的であったか。」

シンプルではあるが、はぐらかさずに答えるのには時間が必要な質問である。かれこれ、友人、先輩、後輩、就職の際の面接官など、様々な人から投げかけられた質問に、私はいつも、次の答えを返している。

「すべてが同時に存在し得る、ということを、見せてくれたところです。」

それはどういうことか、と必ず皆聞く、少なくとも、そのような表情を浮かべる。確かに、世の中の真理に関する命題としてはあまりにも陳腐であり、当然のことのように思える。しかし、高校3年生の私にとって、友人たちと訪れたヒンズー教徒の聖地、ベナラスで目の当たりにした光景には、「珍しいものをみたことによる感動」というよりさらに一歩進んで、自分の考え方の軸を与えてくれる力があった。18歳当時、ガンジス河を訪れた感想を書きとどめておいたものを抜粋してみる。

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ガンジス河!

初めてみるこの「聖なる河」は、やはり広くて、向こう岸は遠く、どこまでも流れていくように見えた。流れはとてもゆっくりしていて、動いている様子はわからない。

みんなで散歩をすると、川沿いの道のありとあらゆる光景を目にした。

観光客に寄ってくる客引きのインド人、野良犬、野良ヤギ、野良牛、殉教者や、信心深く沐浴している人、水をかけあって(寒いのに)ただ遊んでいる人、、、子供たちは棒切れと壊れかけたボールで、クリケットをしている。

能天気なようで、したたかな、人々の暮らしぶりが見えてきた。

賑やかな場所からすこしはなれたとき、ふと、一人の男性と男の子がうずくまっているのが目に入った。よく見ると男性は、泣き声を押し殺しながら、亡くなった赤ちゃんを抱えていた。友人や私はそれに気づいた瞬間、ただ言葉を失って、男性がボートに乗り込み、小さな白い包みを静かに川面に下ろす様子を見守った。

白いちいさな包みは、ゆっくりと漂い、川下に流れていった。

本当にゆっくりと。

その光景は、今でもはっきり思い出すことができる。

送る人と送られる子、それだけの葬儀だった。

すぐそばでは、まったく何事もないように(実際彼らにとっては何事もなかったのだが)、子供は遊び、客引きは今日の商売を成功させようと声をかけてくる。

自分が、今の光景に対して何かしら考えるべきことがあるのかも、よく分からなかった。

ただわかったことは、この河のほとりでは、生と死が、もっとも簡素な形で、隣り合って存在しているということだった。もっと言えば、この河のほとりでは、もっとも対照的で、相反するものさえも当たり前のように同時にあった。

動物も、人も、死者も生者も、

富める者も、貧しいものも、

僧侶も、一般人も、穢れたものも、そうでないものも、

喜びも、悲しみも

すべて、本当にすべてが混沌としていて、しかし一緒に存在するのを許されていた。

同じレベルで、存在するのを当たり前とされていた。

ただ、唯一違っているとしたら、彼らが信じているという神々だろう。彼らは、少し高いところに君臨し、目下の混沌を眺めているように思われた。

眺めているだけで、とりわけ何もしない。

救いもしないし、罰しもしない。

そんなことを考えた。

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以上は当時の荒削りな感想だが、その後この体験を消化し、多少の事には驚かなくなったことはもちろん、物事は一枚岩ではありえないという視点を、頭で理解した、というだけでなく体で感じ取ったこととして持つようになったことは、今の私のどこか基本的なところを作っているのだと思う。