2001年1月26日〜岡本真祐子(MC00−02)

それはインドの独立記念日、MUWCIでも青空の下式典を終え、いつもと同じ休日が訪れようとしていた朝のことだった。正確にはいつもと少し違う休日、近く開催される演劇週間(Theatre Week)に向けて、先生も生徒も、準備や練習に励んでいた祝日であった。

2001年1月26日朝8時46分、インド西部グジャラート地方において、マグニチュード7.9の超大型地震発生。死者は、、、たくさん。

このニュースが校内を駆け巡ったのは、その日の昼頃のことであった。

創立4年目のMUWCIはまだ、情報網などあってないような状況で、テレビはなかったし、インターネットはしょっちゅう止まるし、携帯なんて想像もできなかった。郊外の丘の上ゆえ、新聞が届くのも朝一ではなかったような・・・ある先生曰く「海の真ん中を渡ってゆく船に、200人で乗り込んでいるようなもの」そのような、人と人とのコミュニケーションをすべてとして成り立っているような場所だったのである。

だから、地震のニュースが即時入ってこなかったこと、ましてや国はインドである。それは不思議なことではなかった。どうやら他国のほうが情報が早かったらしく、生徒たちの家族や友人たちから電話やメールが入ってくる。そして私にも。大丈夫だったかと。

実際のところ、MUWCIがあるマハラシュートラ州プネー市は、被災地のグジャラート州と隣り合っているとはいえ震源地からは数千キロ離れたところであり、学校の人間は、敏感な者が「あれ、今?」と思った程度だった。インドは広い。敏感な者といっても、世界の国々のなかで地震が起こる国はその一部であり、また大小かかわらず、それを経験したことのある者がMUWCIに在校している確率というのは、非常に低いといってよいだろう。つまり、ほとんど誰も気づかないまま、また忙しい一日が始まろうとしていたのであった。

昼頃学校中に広まったそのニュースは、具体的なことは何一つわからないものの、どうやらかなり深刻であるらしいというものだった。それを受けてすぐ、何がどうなっているかわからないし、何ができるかもわからないけど、ともかく現地へ行こうという生徒が出てきた。教室がある棟には、全員が見る掲示板があり、そこに募集をかけたのである。数名が応じたと記憶しているが、これは学校が止め、実現しなかった。そのかわり、学校として救援隊を組織し、現地に派遣することが決断されたのである。隊は数名の教職員と生徒で構成される。立候補したい者は、事務室まで応募しに来るように。志望理由と、自分が持っているスキルや経験について書くように。校長のウィルキンソン博士が布告した。午後2時頃であったように記憶している。

私は悩んでいた。

まだ英語も不自由で、体も小さく体力もなく、そのような緊急の場ですぐ使えるようなスキルもほとんどないような自分が、応募してもよいものなのだろうか?何ができるかわからないし、何もできないのだったら、行っても仕方ないし応募しても無駄なのではないだろうか。私が唯一持っている経験といえば、1995年1月17日に発生した阪神大震災に、11歳当時大阪在住だったため被災している、そして親戚もほとんど神戸で、というその一点のみだったのである。関東出身ではないので、日常的に地震を経験していたわけでもない。だから何?と言われればそれでおしまいだ。

応募締切の時間が近づいてくる。悩みながら事務室へ向かった。一体何を書けばよいのだろうか?私は、当時のMUWCIのなかでおそらく唯一の、大地震の経験者として絶対に何かしたかった。でもその何かが現地へ赴くことなのかどうか、それに私がふさわしいのかどうか、それを決めかねていたのであった。一言で言うと、自信がなかったのだ。

応募用のノートには、すでに多くの名前が多くの文字とともに連ねられていた。私はこれを見て、また不安になった。名前を書きながらまた考えた。私には何ができるのか、震災の経験を生かすことしかないよな、でもどうやって、私は子どもだったし、、、

ああそうか、子ども・・・子どもたちの治療と、心のケアを。

地震が怖いのは日本の子どもだけではないはずだ。子どもたちの経験に本当に共感し、それに対するケアを考えることができるのは、MUWCIのなかではおそらく私だけだろう。当時、フラッシュバックもまだ時々あり、震度5だったとはいえ本や本棚の下敷きになったという震災のショックから完全には抜け出せていなかった私である。自信なく、不安で、でも歯を食いしばるような気持ちで、ノートに志望理由を綴っていったのであった。

選考結果が出たのは夕方5時頃であった。学校のどこにだったか、希望者は集まるように言われていたのである。そこで、隊員の名前が校長の口から発表されることになっていた。まず教職員が発表される。次に二年生、そして・・・’and Mayuko.’

私は耳を疑った。一年生は私一人だったのである。よりによって。そして、二年生は現地の言語であるグジャラート語が堪能なインド人の女の子以外は、全員ガタイのいい、ボーイスカウトで鍛えてきたような男の子たち。いいのか?私で?本当に?その一方で安堵する気持ちもあり、複雑な心持ちのまま、寮へ戻っていった。

寮でほかの生徒たちに「どうだった?」と聞かれ、私は、「隊に入ったよ、でも大丈夫かな、自信がなくて」と答えた。すると、ノルウェー人の女の子にすごい勢いで、「じゃあ私と替わろう!私が行きたい」と言われてしまったのである。私は、不安ではあったが辞退する気持ちは毛頭なかったので、この言葉に非常に驚いた。しかし、彼女の言うとおりなのだ。私は、たくさんの応募のなかから選んでもらったのである。演劇週間が近かったため、応募したくてもすることができなかった人たちもいた。このなかから、私は大地震を知っている者として、その経験を生かすために学校から派遣されるのだ。私は自信と責任を持たなければならないのだ。そしてこれから、前向きに活動しなければならないのだ。

たった半日の間に、私はこう思い知らされたのである。