直接対話するということ〜山本ゆうじ(秋桜舎)

中国での小さな出会い

2006年の10月ごろ、私は中国の桂林を観光で訪れた。そこで感じたのは、知らず知らずのうちに日本のマスメディアで「中国に対する負の思いこみ」が強められていた、ということである。私は中国について最低限のことは知っているつもりだ。ごく簡単な中国語の知識はあり、中国の古い小説は翻訳でいろいろと読んだ。それまでUWCやその後のアメリカへの留学、さらに各国の旅行中に中国人、中国系の人とは会う機会はあったし、ずいぶん話もした。だが彼らは留学生やアメリカ系中国人であり、出会った場所は欧米の国々、そして会話は英語でだった。言い換えれば、「英語が話せる中国人、中国系の人」としか会う機会がなかった。今回の旅では、「中国の中国人」とわずかではあったが、直接出会えた。夕方のひとけのない博物館で、受付のバイトをしていた若者と筆談をした。また、書店でも店員とたどたどしい中国語と筆談で意志を伝えた。こういった小さな出会いから、マスメディアから受ける「中国」の印象が歪められ、無意識のうちに偏見が植え付けられていることに改めて気づいたのだ。「国」というものは、あまりにも抽象的な存在でしかない。だが、そこに住む人々は、血肉を持った人々である。「ああ、やっぱり同じ人間じゃないか」と当たり前のことに改めて気づく。

桂林の書店の棚には、一部の日本人にはよい気持ちがしないであろう題材の本が並んでいた。その一方では日本の歌手のCDもわずかながら置いてある。こんなに近い国であり、文化的な交流がずっとあったのに、まだまだ互いに理解しあえてないことがもどかしい。

報道は公平を期すべきであり、醜いことでも取り上げるべきことは取り上げるべきだろう。だが日本のメディアには、連日、公平さを通り越して、中国や韓国への悪意があるとしか思えない報道は少なくない。その底辺には、日本人の根本的な「外国不信」と近親憎悪があるように思える。

外国排斥と鎖国を引きずる日本

日本が外国に対してこれまでどのような態度を取ってきたか考えてみると、「日本は外国との付き合いが苦手である」ということに改めて思い至る。これは、日本製品や一部の日本文化が海外でもてはやされていることとは関係がない。

昨今の日本は、政府、一部の新聞とメディアともども、思惑の違いこそあれ、明確な右傾化の様相を呈し、民主主義の否定へと動いている。政府のタウン ミーティングでの常習的な「やらせ」に見られるような思想誘導もその一例である。攘夷、すなわち外国排斥と、わずか150年前まで行われていた鎖国の思想は今でも強く生き残っている。日々の生活ではすっかり忘れて実感することはないだろうが、わずか60年前まで、日本にとって「全世界が敵」だったのは事実である。我々は今、そこからいくらかでもましな状態になっているのか。そのことは改めて考える意味があるだろう。

日本は、欧米諸国と競争するために欧米諸国から帝国主義を学び、忠実に実践した。だが、その一方で、民主主義に関してはいまだに身につけていないようである。低迷する投票率、いまだに続く実質的な一党独裁、変わらず存続し続ける「天下り」、わずか7%しかいない女性議員、裁判員に参加したくない人の多さなどはそのことの現れだろう(その裁判員フォーラムでも、新聞社がやらせを行っていたことは理解に苦しむ)。鎖国と攘夷前の日本からの封建的体質は、依然として消えてはいない。

直接対話の重要性

今日本に必要なのは、不信に基づいた排他独善主義ではなく、「尊重と共存」ではないだろうか。異文化間で理解しあうには、直接対話できることが重要である。直接対話とは、政治家同士などの対話のことではない。人間同士の対話である。そのためには語学力は当然の前提になってくる。

一般に、人間同士が信頼を育てることは難しい。せっかく育った信頼も、ささいな誤解から一瞬にして崩れることがある。言葉や文化が違う者同士であればなおさらである。また、言語を学んだとしても、自由にコミュニケーションできる程度まで外国語を習得するのは確かに難しい。とはいえ、通訳や翻訳を介して相互理解したような気分になるのは危険である。国際化を謳う都知事が、海外に行くときに通訳を連れて行くと聞いた。知事ともなれば、通訳なしで英語やフランス語くらい話せなければ恥ずかしかろう。確かに相手に日本語を学んでもらうことも大切だ。だが、それと同時にこちらも相手の言葉を学ぶ努力は必要のはずだ。

日本語しか知らない人間は、日本文化を理解できたとはいえない。なぜならば、比較の基準が存在しないからである。さまざまな言葉と文化を学ぶことで、はじめて自分や相手の文化をより客観的に眺めることができる。そうすれば、自文化が絶対的に優越であるような錯覚に陥ることを避けられる。純粋な文化などというものが存在しえず、どのような文化であっても本質的には混成であるということを実感できるのである。

私たちの身の回りには海外の映画、ドラマ、音楽などがあふれている。それらのおかげで、「文化を理解した」と錯覚する場合もある。私は、翻訳業界にかかわる者として、翻訳・通訳の過程でどれほどの情報が欠落するか痛感している。テレビの二カ国語放送で、その気になればいつでも英語などで聞けるのに、実際にそうしている人間は少ない。確実に内容を理解できる人間はさらに少ないのが実情だ。

不信と敵意を克服するために

一部の留学経験者の間では、「急性愛国化現象」が見られる。これは特に大学、大学院以降で留学した場合に特に見られるようである。大学以上の年齢では、人間の価値観はかなり固定化されている。新しい価値観とどう接すべきなのか、対処できないことがある。何かを学ぶために留学したにもかかわらず、極端な拒絶にいたることもある。これにはさまざまな要因があるだろう。それまで日本を客観視する機会がなかった人は、海外で「日本のイメージ」にショックを受け、日本、ひいては自分が侮辱されたと考える。もちろん、これをきっかけに日本文化を真摯に考えはじめる人もいる。だが、一歩間違えば、異文化への敵意に変わることもある。また、英語などの外国語をマスターできなかった場合にも、自尊心を痛めた反動として急性愛国化することがある。

この点で、大学以降の留学に対して、高校留学では、価値観の受容がより自然に行われるものと思われる。その一方で、ホスト国の文化に吸収・同一化する場合もある。しかし、UWCのような異文化が混在する環境では、一般的な留学と異なり、ホスト国の価値観に限らず、各国の生徒の多様な価値観に触れることになる。それだけ悩む機会も多いといえるが、得られるものもまた大きい。

日本人の多くは、外国人と接するときに多かれ少なかれ、ある種の緊張感を持つ。そこには「自分は(たとえば)英語をきちんと話せているだろうか」といった不安、つまり言葉の問題もあるが、それだけではない。日本語が流暢な外国人に対してもそうだ。私もUWCに行く前までは、数人の外国人しか会ったことがなかった。外国人に会う機会のない人が、外国人慣れしていないのは無理もない。しかし、その不安が、「慣れていないから」というだけの理由で、やがては不信と敵意に変わるのは防ぐべきではないだろうか。留学しない場合でも、異文化と「不幸な出会い方」をしてしまうことは、今この瞬間にも世界中でおこっていることだろう。UWCのような試み、そしてより広い意味での異文化理解教育が、少しでもこのような不信と敵意を減らせることを私は望む。

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アトランティック・カレッジ(1991-1993)

言語・翻訳コンサルタント。筑波大学・比較文化学類を経て、シカゴ大学人文学修 士号を取得。企業対象に翻訳ソリューションを提供。業界誌に寄稿し、講演やセミ ナーも行う。