自ら決断するということ〜坪内南(世界経済フォーラム)

外の世界に出て行きたかった私
母が幼い頃の私の話をすると、いつも「一人で何でもやりたがる子どもだった」と言う。おむつがはずれない頃に一人で八百屋におつかいに行くと言い出してきかなかったり、幼稚園を途中で抜け出して先生を真っ青にさせたこともあったという。外の世界に限りない好奇心を持ち、突拍子もない行動ばかり起こす子どもだったらしい。そんな私だったから、中学校を中退してカナダに留学すると言い出した時、両親は最初猛反対したが、最後にはこれ以上反対しても無駄だと思ったらしく、一年だけという条件で留学を許してくれた。

当時、一四歳。それまで外国に住んだことがあったわけでもなく、英語もできない状態でカナダに渡り、結局両親との約束に反して高校卒業までの四年間を過ごした。休暇を日本で過ごした後、またカナダに戻る私を成田空港で見送るたびに、心配と寂しさで母が涙をこぼす話を後で姉に聞かされるとさすがに胸が痛んだが、日本の画一的な教育に嫌気がさしていたこともあり、日本に帰ろうとは決して思わない親不孝な娘だった。

「主流」や「常識」の存在しない世界
UWCピアソン・カレッジに通ったのは、四年間にわたる留学生活の後半二年間である。したがって、カレッジ入学時点においては、すでに単身留学三年目だったわけだが、カレッジでの生活は、新鮮な驚きの連続だった。世界七〇カ国以上から生徒が集まるというまさに地球儀をひっくり返したような環境で、それぞれが異なるということがあたりまえという事実を目の当たりにし、自分とは何なのか、自分の信念とは何なのか、大いに悩んだ。
たとえば、当時も中東和平が世界の関心事であったが、クラスメイトのイスラエル人、パレスチナ人、そしてさまざまな政治や宗教を背景に持った学生たちがそれぞれに意見を持っていて、多数派に支えられる正義というものが存在しなかった。
それまで自分の中で培われた常識や主流とされていたことが、自分と異なる文化やバックグラウンドを持った人にとっては非常識であったり反主流になることがあり、主流というものが存在しない状況では、自然に、自分の考えを明確に持つことが求められることを学んだ。そして結局最後に頼ることができるのは、社会に存在する常識ではなく、人と意見を交わす中で、自分の心で感じ、考え、信じて下した決断だけであるということを知った、初めての体験だった。

自分を信じての選択
最後に信じられるのは自分の決断——そうであるならば、自分の心で感じ、自分で決断できる力を少しでもつけていこう、という思いは、その後の大学生活、社会人生活を通してどんどん強くなっていった。大学で総合政策を学んだ後、経営コンサルティング、アフガニスタンでの人道支援、医療分野での政策立案、と、多岐に渡る分野で仕事をし、時には「あなたは何がしたいのか」と首をかしげられたこともある。しかし、一見ちぐはぐに見えるキャリア選択は、常に「世の中の苦しみや悲しみが少しでも減ることに貢献する」という一つの目的に向かっていたため、その時々において自分が何をすべきかについては常に明確なビジョンを持っていた。
これまでの仕事を通して、世界規模での問題を解決するためには、国・地域・産業を超えての対話が重要であると強く感じるに至り、今年より、スイスに拠点を持つ世界経済フォーラムにて新たな一歩を踏み出した。「Committed to improving the state of the world(世界の状況を向上させる)」という目的のために、世界のリーダーたちを巻き込んで世界・地域・産業レベルでの課題解決を試みるという仕事には、大きなやりがいがあり、刺激の多い毎日である。また、様々な文化、価値観、立場をもったリーダーを世界中から集め、共通の課題に取り組んでいく、という業務においては、頼るべき「常識」というものが存在せず、ピアソンカレッジで学んだ「自分で考え、決断する」ことが生きていることは疑いようがない。

十代の多感な時期をUWCで過ごし、自ら思考することの大切さを知ったことは、私の原点となっている。留学生活を支えていただいた日本経団連の方々、そして心配をかけ続けた家族に深く感謝するとともに、日本の高校生が今後UWCで大きくはばたいてくれることを祈っている。

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UWCピアソン・カレッジ(カナダ、一九九四年〜九六年)。二〇〇〇年慶應義塾大学総合政策学部卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニー、難民を助ける会カブール事務所、東京大学先端科学技術研究センターに勤務。マサチューセッツ工科大学都市計画修士課程終了後、二〇〇六年七月より現職。